再生ドラム缶の製造、リース、新缶販売、使用済みドラム缶の回収をおこなっています

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ドラム缶あれこれ

ドラム缶の歴史


 
 ドラム缶は1903年、米国人女性ネリー・ブライ[Nellie Bly]女史によって発明され、彼女が経営を託されたニューヨークのアイアン・クラッド社で現在のドラム缶とほぼ同形状のものが製造されたのが始まりです。 
1860年代、アメリカで発見された石油の貯蔵用として使用されていた木樽に代わる容器として、ネリー・ブライ女史が欧州旅行中に見たグリセリン入りの金属容器をヒントにしてドラム缶は生み出されました。

ドラム缶の先輩である樽は、数千年前プロフェット・エリジャー[Prophet Elijah]が国王の最高位を誇示するために「4本の木樽に水を満たし・・・」(聖書‘King James Version 1611’、一部‘Barrel’を‘Jar’と翻訳)とあります。
ローマの歴史家プリニー(Pliny)によれば、木の樽はアルプス渓谷のゴールズ(Gauls)が発明したと述べていますが、定かではありません。

わが国にドラム缶が何時頃現れたかは定かではありませんが、大正末期頃、海外からの輸入物資の容器として洋樽に混じり、登場したようです。
 

日本での始まり

 
 日本でドラム缶の製造を企業として始めたのは、当社の前身であります「合資会社日本ドラム罐製作所」です。
1932年(昭和7年)に操業を開始しました。
自社用としては小倉石油(日本石油)が1929年(昭和4年)に製造を開始しています。

その後ドラム缶工場が全国各地に設置されると、それに伴って中古ドラム缶の更生業もだんだん盛んになりました。
当社は現在、新缶製造会社と分離され、ドラム缶更生業専門会社として今に至っています。
 

産業基盤の確立

 
 1931年(昭和6年)に勃発した満州事変を契機に大量の軍需に支えられ、新ドラム製造業者・中古ドラム更生業者とも急速にその事業所数・規模を拡大していきました。

満州事変後、二・二六事件、太平洋戦争へと戦火が拡大していくに伴い、ドラム缶の軍需は極めて高くなり、特に新ドラム製造業者は軍の管理工場として増産につぐ増産を強いられました。
戦況の烈化に伴い石油製品、工業薬品等が厳重な統制下に置かれ、その容器としてのドラム缶が重要な役割を果たしたこの時期にわが国ドラム缶産業の基盤が確立したと言えます。

戦後は、荒廃した経済の中でドラム缶も空白の時代が続きましたが、1950年(昭和25年)に勃発した朝鮮戦争の特需によりドラム業界も未曾有の活況に恵まれ、戦後の荒廃から立ち直りました。
  国各地に設置されると、それに伴って中古ドラム缶の更生業もだんだん盛んになりました。
当社は現在、新缶製造会社と分離され、ドラム缶更生業専門会社として今に至っています。
 

現在

 
 各種石油・化学産業の発展に伴い、ドラム缶産業も種々の問題を乗り越えて発展し、現在(平成9年度)では、新ドラムは年間1,245万本、更生ドラムは1,594万本が生産されるに至っております。
 

日本ドラムよもやま話


 
当社創業者である本野吉彦が生涯を振り返った小伝には、ドラム缶にまつわるさまざまな逸話・秘話が語られています。
ここではそのいくつかの話を掲載しましょう。
 

21発の礼砲

 
 昭和6年の柳条溝事件を発端として、日本は長い戦争の時代に突入していった。
 戦火が拡大するにつれて、本野のドラム缶は軍役の最重要資材として、国策への協力を強いられる。
 満州、朝鮮、ジャワ、シンガポール、フィリピン…、へと、軍の要請というよりむしろ強制によって、次々にドラム缶工場の建設を余儀なくされる。

最も苦心したのは、従業員の確保。
内地工場を何とかやりくり、ようやく20名を選び現地へ送り込んだ。
太平洋戦争も終盤に近づいた昭和19年末であった。
 やっとの思いで派遣したその20名のうち、実に19名が帰らぬ人となる。生還できた一人は、まさに奇跡としか言いようがない。
神の無情を感じるが、戦争という異常事態のなかでは致し方なかったのだろうか。
吉彦は「生涯で最も悲しい出来事」と回顧している。

 昭和20年の敗戦は、日本国民をかつて一度も経験したことのない苦境に陥れた。
しかし、立ち直りはことの他早かった。朝鮮動乱がもたらした特需に与ったことも幸いしたのだろう。
吉彦率いる各社もまた順調に復興していき、特需にも乗って業績は上々に推移した。
 敗戦から30年も経つと、戦争による悲惨な記憶は薄れ、次の階段を上りたい意欲に燃えて日本全体が歩調を整え始めた。
そうした時に思い出されるのは、戦時中遠く南海の地で亡くなった従業員たちのことであった。
「この平和を彼らにも味合わせてやりたかった」という吉彦の常々の気持ちを早くから察知していた長男克彦は、フィリピンの知人M・ミランダ氏を介して、現地での慰霊祭を計画した。


 昭和51年11月、念願の慰霊祭は実現した。
現地のマニラの工場後にはカトリックの教会が建ち、奇しくも日系人の牧師が司祭を務めていた。
当日は吉彦が招いた戦火の犠牲のなった従業員の遺族50余名に、現地の人々の参列も得て、30年間忘れじの慰霊祭が同教会で厳粛に営まれた。


 吉彦は「やっと亡くなった人たちの供養ができた」と心から喜び安堵したが、このとき吉彦を驚かせたのは、フィリピン軍兵士による21発の礼砲であった。
それは戦没者慰霊碑に献花を行う際、突如として鳴り響いた。
事前に知らされてなかったこともあって、感激は一入であった。
21発の礼砲は、民間人に対しては全く異例の敬意であった。
しかも、フィリピンからすれば、日本はかつての敵国。後判ったことだが、この礼砲は田中角栄元首相に次いで2番目であった。
これほどの慰霊祭が、現地人と供に行われたことに大きな意味があった。

 戦前、戦後を通じて亡くなった本野の関係者は160名に及んだ。
吉彦はこれら亡くなった社員たちの慰霊碑を鎌倉長勝時に48年に建立した。
 碑には故人の名前が刻まれており、以来、朝夕一日も欠かさず梵鐘をついて、冥福を祈っている。
参考文献:「本野吉彦小伝」